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宮地尚子『傷を愛せるか 増補新版』(ちくま文庫、2022年)

トラウマなどの研究をしている医療人類学者、といったらいいのだろうか、宮地尚子さんの本が文庫になっているのを書店でみつけた。ちょうどいい、元の書籍をまだ読んでいなかった。そう思って手に入れて、さっそく読み始める。

数本のエッセイが増補されて、天童荒太さんの解説が付されているけれども、たぶん大きく元の単行本とは変わらないのだろう。

テーマとしているトラウマやジェンダーのことをどのように見ているのか、どうしてそうしたテーマに出会ったのかを、エッセイで綴る。親友が、子どもが、両親が、恐怖や大きな出来事、喪失にさらされたときに見つめているしかできなかったこと。癒しがたい哀しみ、傷に対して、祈るという行為がどんな意味を持ちうるのか。弱みや傷つきやすさを抱えたまま生きてゆくことはできないのか。

そんなことが、国際学会に赴いた旅先での経験や、映画や本に触れて、あるいはひとりで留守番している土曜日の午後、部屋に闖入してきた蛇と、それを追い出した父のことを思い出しながら綴られてゆく。

「仕事モード」で「男っぽく」生きている時間の多い男性は(本文でもこの表現はカッコに入れて使われている)、とかく自分自身の傷つきやすさに向き合うことがうまくない、と書くエッセイがある。多くの言葉が費やされていなくても、男性の性被害を研究テーマのひとつとして持つ宮地さんの、実感のあることなのだろうと思う。

ページを繰りながら、自分には傷がある、傷つきやすい存在だ、という自覚はないことに気がつく。幸いにして、そしていまのところ。同時に、これが誰かを無意識に傷つけていることの裏返しでなければ良いのだが、という気持ちが起きる(祈るような、と書きかけて消す。少しだけ怒りに近いかもしれない、うまく言えない)。ここで明かすようなことではなく、明かせることでもないけれど。宮地さんが、自分自身の記憶からベトナム戦没者記念碑まで柔軟にスケールを変えながら、傷ついたひとにいかに寄り添うか、癒やし治療することが大きな仕事である医療に何ができるかと問い、文章を紡いでゆくとき、その言葉は裏側から私に迫る。

増補されたエッセイの一つ、「父と蛇」という短い文章をしばらく忘れられないだろう。幼い宮地さんは洋間にゆっくりと入っていった蛇を見て、今度はそこから出てこないか、ひたすらドアを見張り続ける。最初に帰ってきたのが父だったのか、覚えていないという。作業着に長靴に軍手と重装備に身を固めた父は、なんとか蛇を掴みだし、ベランダの向こうに放り投げる。

なぜ父はあんなにも重装備だったんだろう。父だって怯えていたのだ、幼い私は父だから男だから、蛇なんてやっつけられるのは当然だ、そうとしか見ていなかったことに気がついた、という文章である。見ること、見つめていることを父はどう感じていたのだろう、いまはそれが気になる。

宮地尚子傷を愛せるか 増補新版』(ちくま文庫、2022年)